2015年02月25日

粕谷義三

21kasuyagizo01-douzo-s.jpg 入間郡上藤沢村(現入間市)の名主橋本要作、とりの長男として、慶応2年(1866)8月15日に生まれる。明治12年(1879)川越講習学校を卒業後に上京、島村塾で漢学と洋学を修めた。同18年川越にあった入間郡役所の書記となる。
 翌19年に渡米しサンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、財政経済、政治学を修めた。23年同大学卒業、法学士を得て帰国した。自由新聞の主筆となるが、同紙の廃刊にともない帰郷した。

 明治24年、同じ入間郡豊岡町の粕谷家の養子となった。明治25年(1892)に埼玉県会議員に当選、以後4回の当選を重ね、29年に県会副議長に選ばれた。
 明治31年(1896)の第5回衆議院議員総選挙に出馬して初当選、以後明治、大正、昭和期を通じ12回当選を果たした。入閣こそなかったものの、党の要職を歴任、大正9年(1920)に衆議院副議長、次いで大正12年(1923)に衆議院議長に就任した。名議長として定評があった粕谷は、選挙を省いて議長に再選されると、議会運営の公正を期すため党籍を離脱した。党籍を離れた最初の議長である。昭和2年(1927)の金融恐慌の影響で第52回議会が混乱状態となり、引責辞任した。

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       粕谷義三の銅像(市民会館横)
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         粕谷義三の墓(長泉寺)


 また、蓬莱生命保険や武蔵野鉄道の役員を務めるなど、実業界でも名を残した。昭和5年(1230)5月4日、東京で死去。墓所は扇町屋の長泉寺。
 左は粕谷義三の銅像であるが、この銅像は昭和50年に再建されたものである。旧像は、先生の没せられた昭和5年から4年後の9年に、旧豊岡公会堂前に建てられたが、昭和19年に戦争激化のため惜しまれながら供出された。服装は戦前の文官の制服である大礼服で右脇にもつのは帽子である。旧像の写真は『いるまのつる』竹堂顕彰会編にある。新像はいろいろな資料をもとにして高岡市の高岡鋳工所で造られたものであるが、旧像とやゝ感じが違うそうである。なお台石に嵌められた銅板は旧のものである。
  


posted by いかす会 at 15:38| Comment(0) | 入間の偉人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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